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竹内街道の史跡を巡る その1

Photo_5 9月27日(土)午後に奈良学文化講座「竹内街道周辺の史跡をめぐる」の屋外講座が上野勝己氏(竹内街道歴史資料館前館長)の案内と説明で開始された。氏の主な著書に「竹内街道の道しるべ」、「聖徳太子を巡る動きと三骨一廟の成立」などがある。文献や史跡研究などによる上野氏独自の解釈が随所に披露され大変に面白い講座であった。また、竹内氏は元中学校校長であるので笑いを誘う説明が素晴らしかった。
竹内街道とは現在の大阪府堺市大小路から奈良県葛城市長尾までの約26kmの最古の官道です。今回は叡福寺から近鉄南大阪線駒ヶ谷駅までの約7kmのコースであった。

Photo_6 12:45に叡福寺を出発し「太子・和みの広場」付近で聖徳太子御廟は「五字ケ峰」の山裾にあるとの説明があった。「聖徳太子が天から五字ケ峰に光が射すのを見て、自分の墓をここに造ると決心させたと言う伝説がある」と言うような話があったような気がします(確信がありませんが)。

2 しばらく竹内街道(166号)に並行してつくられた道を進み、竹内街道、上ノ太子駅を横切り「飛鳥戸(あすかべ)神社」に着いた。
この地は5世紀頃に渡来した百済王族 昆伎王の子孫の飛鳥戸造(あすかべのみやっこ)氏族の居住地だった。当初は昆伎王が祀られていたと思われるが、平安中期頃に素盞鳴命(すさおのみこと)に代わったようだ。南北朝から戦国末期に社殿が焼失した。その当時は式内大社として大きな神社だったようだ。
飛鳥戸神社から山道を登り「観音塚古墳」のふもとで説明を受けた。ここにも横穴式石室があるとのこと(時間の関係でスキップ)。この地方には数多くの横穴式石室があるとのこと。

Photo_8 飛鳥川に並行する竹内街道を進み、近鉄南大阪線の上ノ太子駅と駒ヶ谷駅の中間くらいの沿線に「役行者錫杖水」の刻印のある石塔があった。この地で水が湧き出ていたと言い伝えられているそうだ。この石塔は堺で金もうけをした神南邊隆光という商人が道しるべとして建てたものとのこと。正面には「役行者錫杖水」と現在地を、右面には「右金剛山/津ぼ井/通法寺/上ノ太子」と方向を、左面には「神南邊隆光」と建立者名を示している。神南邊隆光が建てた石塔を「神南辺大道心の道教え」と言い、この地には沢山あるとのこと。貢献が認められ神南辺大道心と名乗ることが許されたそうだ。

2_3 すぐ脇の踏切を渡ると「役行者の石像」があった。良く見かける右手に錫杖、左手に経巻を持ち腰かけている像だ。名前は役公小角(えだちのきみ おづぬ)と言い、634年に今の奈良県御所市茅原の吉祥草寺で生まれた。日本霊異記に「一言主命に葛城山系の岩橋山から吉野の金峯山に石橋(いわはし)をかけるように命じたが、一言主命は夜しか働かず進まないので、深谷に押し込めた。役行者の弟子が密告したために母親が人質にされてしまったので、母親思いの役行者は出頭し配流されてしまう」と言うような文章が載っているとの説明があった。この時の石が岩橋山の山頂にあるとのこと。

Photo_9 役行者の石像から線路と反対方向にしばらく行くと「假宮蒦址」と言う石碑があった。これは第18代反正(はんぜい)天皇が父親の仁徳天皇が崩御した時に反乱を起こした兄の住吉仲皇子を殺してしまう。兄の17代履中天皇に会いに行きたいが兄を殺したことで履中天皇に会うべきか会わざるべきか悩み、都へ行く途中で暫くの間逗留した場所の跡との説明があった。
来た道を後戻りし、踏切を渡り竹内街道を飛鳥川に並行して進んだ。やがて「月読橋」という風流な名前の橋を渡る。

以下、「竹内街道の史跡を巡る その2」に続く。

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