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奈良学ナイトレッスン「日本神話の女性たち」受講

平成24年1月25日(水)19:00~20:30に日本橋室町にある「奈良まほろば館」の「奈良学ナイトレッスン第3期1夜」(全3夜:無料)を受講した(応募多数で抽選だった)。
テーマは「日本神話の女性たち」で立正大学の三浦佑之教授だった。
第1夜は「恋する妹と見守る姉ーイザナミとアマテラス」という内容だった。
先ず、妹(いも)という存在について、兄との関係の説明があった。
「イザナキと妹イザナミの結婚」(古事記上巻)と「サホビコをめぐるふたりの男の物語」(古事記 中巻)の解説があった。
古事記と言えば国づくりの話くらいしか知らなかったが、前者では淤能碁呂島(おのごろしま:「自ら固まる島」の意)に下りた「イザナキ」と「イザナミ」が下記のような会話をしていることを初めて知った。
「イザナキ」の「お前の体はいかにできているか」の問いに「イザナミ」は「成り合わないところがひとところあります」と言う。
「イザナキ」は「わが身は成り余っているところがひとところある。成り余っているところを、お前の成り合わないところに刺しふさいで、国土(くにつち)を生み成そうと思う」。
「イザナミ」は「それは、とても楽しそう」と答える。
「イザナキ」は「天の御柱を行きめぐり、逢ったところで美斗能麻具波比(みとのまぐあい:「美斗」=最もすばらしい所、「麻具波比」=合わせる)をなそう」と言って左右に分かれめぐり会うと「イザナミ」が真っ先に「ああ、なんてすてきな殿方よ」と言うと、「イザナキ」が「ああ、なんとすばらしいオトメだ」と言い、「おなごが先に求めるのはよくないことよ」と告げるが、止めることは出来ず、そのまま秘め処(ど)にまぐわいなされてお生みになった子は、水蛭子(ひるこ)。葦船に入れて流し棄てた。
それにしても、神話の世界では性に対して大ぴらで女性が積極的なんだと思った。万葉集でも恋愛に関して女性が積極的なのは、古事記の流れからなのかな。
後者では「イクメイリビコ(第11代垂仁天皇)」の后である「サホビメ」が兄の「サホビコ」と相姦し子供を産むという物語。
これらの二つの物語から兄と妹の場合には「性的関係」となると解釈出来るとのこと。
なお、一夫多妻制では異母兄妹の結婚が彦姫制度(兄が政治、妹が祭を担当)となり政権安定に適しているそうだ。
ただし、後者の物語の場合は兄の「サホビコ」と妹の「サホビメ」は同母なので血統上問題ありとのこと。
次に妹と姉の関係に関して
「イハナガヒメとコノハナノサクヤビメ」(古事記 上巻)の説明があった。
話は醜い姉「イハナガヒメ」が美人の妹「コノハナノサクヤビメ」の副え者として嫁に出されたが、返されてしまったという物語だ。
妹が主役で姉は脇役という関係だ。
姉と弟の関係に関しては「アマテラスとスサノヲ」(古事記 上巻)の解説があった。
父親から追放された「スサノヲ」が姉の「アマテラス」に暇乞いに行った時に、「アマテラス」は当初は弟を疑っていたが、占いにより「スサノヲ」が生んだ三柱の女神、「アマテラス」が生んだ五柱の男神に関し、五柱の男神は「スサノヲ」の子であると認知するという物語であった。
すなわち、姉が弟を「庇護する関係」にあるとのこと。
万葉集の姉の「大来(大伯)皇女」と弟の「大津皇子」の関係も同じとの説明があった。
なお、男女の関係の軸として女性は「イモ」、男性は「セ」、年齢軸として年長を「エ」、年少を「オト」と呼ぶことと兄と妹、姉と弟の関係を表にした「兄弟姉妹関係図」の説明があった。
古文を読むときに大変参考になると思った。
講座は大変面白かった。次回が楽しみだ。

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「平城京の時代ー激動の政治、台頭する仏教」講演

平成22年6月26日(土)午後に日本青年会館で行われた第112回奈良学文化講座「平城京の時代ー激動の政治、台頭する仏教」の講座に参加した。
今年は元明天皇が710年に平城京に遷都して1300年と言うことで奈良では色々なイベントが催されている。
小生も5月2日(日)に平城京跡を訪れ第一次大極殿を見学した(ブログ「平城京跡展示イベントーその1:大極殿見学」参照)。
そのこともあってこの講座には興味があり応募したのだった。
Photo 奈良文化財研究所都城発掘調査部史料研究室長の渡辺晃宏氏が「古代最後の女帝・称徳と平城京」という演題で講演を行った。
渡辺氏は木簡を中心とした出土資料の整理・解読に従事しているとのことで1961年に平城京から出土した第一号木簡、1988年に長屋王の宅地周辺から出土した35,000点の木簡、東院南方から出土した71,000点の木簡、称徳天皇の請願により創設された西大寺周辺から出土した木簡などの解読と平城宮の発掘調査から奈良時代前半(8世紀前半)と奈良時代後半(8世紀後半)の大極殿や内裏、西宮などの配置についての見解を説明した。
奈良時代前半の大極殿を第一次大極殿とすると740年に聖武天皇が恭仁京(くにきょう)に遷都する時にこの第一次大極殿は取り壊され恭仁京に移築されたそうだ。この第一次大極殿の東側に天皇が居住する内裏があったとのこと。
恭仁京、難波京を経て聖武天皇は745年に再び平城京に遷都(奈良時代後半)するが、その後の平城京の配置は奈良時代前半の内裏の南側に大極殿(大二次大極殿)、第一次大極殿の跡地に西宮が建っていたとのこと。
西宮の建築時期はまだ解明されていないが、渡辺氏は749年に即位した孝謙天皇がこの西宮を内裏として居住していたのではないかと考えているそうだ。
内裏でなく西宮に居住した理由として758年から764年の間、淳仁天皇が即位しているので太上天皇として西宮に住んだのではないかとのこと。
なお、孝謙天皇は764年から770年の間、称徳天皇として即位し父親の聖武天皇の東大寺に対して西大寺の造営を行った。
Photo_2 立命館大学教授で副総長の本郷真紹氏が「奈良仏教と宮廷の女性ー光明皇后の果たした役割」という演題で講演を行った。
渡辺氏は日本古代史、宗教史が専門とのことで、「続日本紀」と宗教史から光明皇后の役割を述べた。
藤原光明子(後の光明皇后)は律令制度の確立に努めた藤原氏の系統で、渡来人の多い河内(羽曳野、富田林、藤井寺など)に生まれ育ったのではないかと考えているとのこと。従って、外来の宗教を見聞きしていたので仏教に対する造詣が深かったのであろうとのこと。
716年に聖武天皇と結婚し、729年に臣下出身で初の皇后の地位につく。
光明皇后の果たした役割としては次のようなことがあるとのこと。
(1)仏教政策の変更の推進(具体的には731年に行基に従う老齢の男女に得度を認めたこと。行基は河内出身であることが影響しているのではないか)。
(2)聖武天皇に国分寺建造を促したこと(741年の国分二寺建立詔。特に女性に縁の深い教義をもつ法華経の尼寺を合わせて建造するようにした。総国分寺は東大寺、総国分尼寺は法華寺)。
その他、735年から737年に太宰府を起点として波及した天然痘、遣唐使の「玄昉」、国分二寺設置の意義、盧舎那大仏の造立などの説明があった。
これ等に関しては今年の4月にNHK総合テレビで放送された「大仏開眼」を見ていたので良く理解出来た。

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講座:『古事記』の誕生受講

Photo 6月14日(日)午後に日本青年会館で行われた奈良学文化講座第106回【『古事記』の誕生】を受講した。古事記や日本書紀に関しては、お恥ずかしいながら、神話「伊那那美(イザナミ)命と伊那那岐(イザナキ)命」や「八俣(ヤマタ)の遠呂智(オロチ)または八岐大蛇」などは知っていたが詳しいことは知らなかった。
今回の講座は京都教育大学名誉教授の和田 萃氏が「『古事記』が作られた時代とその歴史的意義」、立正大学文学部教授の三浦佑之氏が「『古事記』はいかに作られたか」の講演を行った。お二人の講演を聞いて次のことを学んだ。
『古事記』は上、中、下の三巻で出来ていること。一方、『日本書紀』は三十巻と一巻の系図で出来ていること。『日本書紀』では一巻と二巻が神話、二十八巻と二十九巻が天武天皇の時代で「壬申の乱」の記述が中心であること。三十巻が「持統天皇」の時代の記述であること。
『古事記』と『日本書紀』のどちらにも「神話」が入れられていること。ただし『日本書紀』には「出雲神話」の部分が載っていないこと。
『古事記』は「神話」から「推古天皇」までの記述であること。一方、『日本書紀』は「神話」から「持統天皇」までの記述であること。
『古事記』は712年に「太安万侶」から「元明天皇」に奏上されたこと。一方、『日本書紀』は720年に「舎人親王」から「元正天皇」に奏上されたこと。
『古事記』は「天武天皇」が「諸々の家にある天皇に関する記述や神話・伝説に虚偽があるので真実をきわめて後世に伝えたい」ということで「稗田阿礼」に記憶することを命じたこと。天皇に関する記事は「天武天皇」自らが選び定めたこと。従って、「天武天皇」の意向が反映されていること。
『古事記』は「天武天皇」の命にかかわらず完成しなかったので、711年に「元明天皇」が「太安万侶」に「稗田阿礼」から聞いて記録して献上せよとの命令で書き始めたこと。
ただし、文字が確立していない時だったので、大和の「音」と唐の「訓」と交えて記述する苦労があったこと。
『日本書紀』は天武天皇時代の681年頃に「舎人親王」をヘッドとする史局のメンバーによって編纂されたようだ(飛鳥京跡から木簡が出土し史局の存在が想定出来る)。

二人の講演で『古事記』と『日本書紀』の関係に関してスタンスが違うのが面白かった。
和田 氏は『日本書紀』は『古事記』の延長にあり関連があるというスタンスのように聞こえた(間違っていたらごめんなさい)。一方、三浦 氏は歴史書としての視点から『古事記』と『日本書紀』はどちらかが本当の歴史書ではないとのスタンスのように聞こえた(間違っていたらごめんなさい)。
三浦 氏は根拠としては次のようなことを挙げていた。
『古事記』は太安万侶家の神社に代々伝わってきたものを平安時代初期(811年頃)に「多朝臣人長」という人が『序』の部分を書き加えたのではないか。だから『序』は日本書紀の内容とあっているが、『古事記』の『序』と『本文』には内容の違いがある。従って歴史書としては『古事記』は疑わしい。
『古事記』の完成が712年、『日本書紀』の完成が720年であり、8年間で二つの歴史書を作るということはおかしい。
『日本書紀』は律令国家として中国の史書のようなもの(日本書)を作ろうとしたのではないか。『漢書』は「帝紀」(皇帝の歴史)、「表」(系図)、「志」(律歴、礼楽、刑法、天文、地理、文芸など)、「列伝」(伝説、神話など)で構成されている。
『漢書』の『志』のなかの「地理志」にあたるものを求めて713年に「風土記」の編纂命令を出したのではないか。
しかし、「帝紀」と「列伝」としての神話しか出来なくて『日本書紀』となったのではないか。

今回の講演は大変面白かった。特に三浦 氏の説は自分にとって「目から鱗」だった。
時間がなくて『記紀』の内容について聞けなかったのが残念だった。
『古事記』と『日本書紀』の関連に関しては新たな木簡の出土、言語学の研究により明らかになってくることを期待したい。

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木製仮面に関する講座

Photo 9月20日(土)午後に日本青年会館で行われた第102回「奈良学文化講座」に出席した。今回は平成19年6月14日に纒向遺跡の太田池の井戸の遺構から出土した3世紀前半(古墳時代の初め)に創られたと思われる「木製仮面」(左の写真)に関する講座であった。先ず初めに発見者である桜井市教育委員会文化財課技師の福辻 淳さんから発見時の説明があった。第149次の5ケ所の発掘調査場所ではない池底を掘ってもらった時に発見したとのこと。この仮面は縦26cm、横21.5cm、厚さ0.6cmで硬い赤樫の木材で作られているそうです。口は3.4cmの円形で仮面として作られる前から開けられていたとのこと。硬い木材、円形の穴があることから農具の鍬(くわ)の刃の部分を加工して仮面にしたと考えられるとのこと。縦1.2cm、横3.5cmの目を開け、眉毛を線刻し鼻孔を開けて仮面にしたそうです。
次に同志社大学教授の辰巳和弘さんが「顔面装飾の習俗と”邪馬台・ヤマト王権”」という演題での講演を行った。先ず、絵画や壺や埴輪などに描かれている人間の顔について弥生時代、古墳時代以降の出土品を西日本(福岡、岡山、香川、山口)、畿内(奈良、大阪、京都)、東日本(長野、岐阜、愛知、茨城)に分類して特徴を述べた。独断と偏見で理解した講演要旨は次の通り。弥生時代の人面においては西日本、東日本の人面には顔面装飾(色、刺青など)があるが、畿内の人面には顔面装飾がない。古墳時代(3世紀~6世紀)、特に5世紀以降になると人面は埴輪に描かれることが多く、畿内の埴輪にも西日本、東日本同様に顔面装飾がある。すなわち、弥生時代から古墳時代初期にかけて機内の人面だけが顔面装飾がないという特徴がある。これは畿内に権力が存在し畿内の人面には顔面装飾が禁じられたのではないか。2世紀後半~3世紀前半は卑弥呼すなわち邪馬台国に関わる時代である。従って、邪馬台国は畿内にあったと考えられる。なお、今回纒向で発見された木製仮面には顔面装飾はない。
最後に奈良文化財研究所都城発掘調査部考古第三研究室長の深沢芳樹さんが「邪馬台国の位置」、「魏志倭人伝における鬼道」、「纒向の神と弥生の造形」について講演したあとに「纒向面は実用されたか」で上記写真の木製仮面について解説した。要点は鍬を面にしていることから農耕と関連する穀神とか再生神を表す面ではないか。面の裏側が平らであるので面を冠るのではなく、面を手で持って顔に載せたのではないか。ボルネオ(?)では一人の人がいくつかの面を交互につかって踊る踊りがある。纒向でほかの面が発見されれば面白いのだが。
今回の講演は木製仮面の秘密を知ることが出来、大変有意義であった。
(注)上記木製仮面の写真は「奈良県桜井市立埋蔵文化財センター」の写真を印刷しスキャンしたものです。

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